神幸行列を飾る山車(大正二年八月)
《祭の変遷》
祇園祭は京都の八坂神社を起源とし、古くは祇園御霊会(ぎをんごりょうえ)若しくは祇園会(ぎをんえ)と呼ばれていました。当時は、疫病や天災の原因は怨霊の仕業だと考えられており、その祟りを鎮めようとして起こったのが御霊信仰であり、この鎮魂の儀式が御霊会でありました。
貞観十一年(869)都で疫病が流行った為、災厄退散・疫病消除の御神徳高き須盞嗚尊に祈願し、鉾を立て神輿を迎え御霊会を行ったのが祇園御霊会の発祥といわれています。やがてそれが庶民に親しんだ賑やかな祭となり、町々で風流を凝らした特色のある山鉾をつくり巡行するようになり、これが夏祭の形式の源流といわれる活気旺盛な祇園祭となっていきました。
当神社の祇園祭もこれに倣ったとみられ、京都より勧請された当初から旧暦の六月八日と十四日に神幸行列が執り行なわれ、この間氏子はもとより周辺近郷の大勢の人々が参集し賑わいをみせました。
寛政二年(1790)に当神社の由来を取り纏めた『祇園宮御由来其外一式記録』のうち、年中祭事について示した『三十三度御祭礼式』には、弘治三年(1557)頃の祇園祭の内容が詳しく記載されています。
先ず五月二十九日に「注連立神事」が行われ、この日から御霊会すなわち祇園祭が始まるとあり、次に六月五日と七日には小島村南婆浦にて「掬垢離」(きくごうり)を行いました。これは神事に先立って身を清めるため潮水にて穢を祓う禊の行事であり、「塩干河神事」ともいわれていました。この翌日にいよいよ行幸(神幸)行列が行われます。この「掬垢離」には国司や勅使も加わり、祭典期間中には参拝して国家安泰の神楽等も奉納されていたことからも、当神社の祇園祭が肥後国にとっていかに重要な祭事であったのかが覗えます。そして十四日にようやく還幸行列が行なわれ、能楽を披露し神楽を舞い山車も飾られ、華やかに一連の祭事を終えていたと記されています。
それでは、民衆から見た祇園祭とはどのようものであったのでしょうか。その様子は天和三年(1683)に肥後藩士が熊本城下における武家社会の年中行事や風習を書き綴った『歳序雑話』に記されており、「この祭に参拝する人々が幾重にも取り巻くほど大勢おり、軒並み連なっている茶店や仮屋で様々な珍しい食べ物や旬の果物等が売られ、その賑わいは朝から夜、そして明け方まで続いた。また月夜の下では、坪井川に舟を浮かべ琵琶や三味線の音色とともに優雅な宴が催されていた。」というのです。また、境内では風流な能楽や狂言も催されて桟敷席は観客で埋め尽くされたとされ、このことからも祇園祭が夏の風物詩として民衆にとって欠くことのできない、大きな楽しみであったのかを知ることができます。
明治期の祇園祭の様子(明治二十二年四月 奉納絵馬)
明治になり新暦に代わると祭日は八月一日より五日までとなり、神幸行列はその四日に執り行なわれるようになりました。「掬垢離」は
「塩湯取神事」(しおゆとりしんじ)となり、七月二十九日に斎場は同じく小島上町の白川下流にて行われ、竹筒で潮水を汲み神社に持ち帰り祭典期間中のお祓いに用いるようになり、これは現在もなお続けられております。各町内の山車も豪華絢爛を極め、正に時代絵巻の様相を映し出す熊本を代表する祭の一つでもありました。
このように時代と共に内容も徐々に変遷を辿りましたが、戦後の混乱の中、社会情勢と交通事情の変化により昭和二十九年を最後に神幸行列は途絶えてしまいます。現在は、明治十六年に新調された御本社神輿の他に神輿三基が残っておりますが、当時の装束や祭具等は残念ながら消失してしまいました。
その後も、小学校区ごとに各町内からの参加により奉納相撲や子供神輿行列が盛んに行われましたが、次第にこれも時代の変化と共に衰退し夜市も一時姿を消すこととなり、その賑わいは失われつつありました。
そこで、伝統文化の継承と地域おこしのため神幸行列を復興しようと創立された、青年有志の会である『祇園會』の方々が尽力し、盛大な夏祭りの再建に向けての取り組みを現在行っているところです。最近になり、祭日は八月一日より三日までに凝縮されましたが、境内においては夜店が立ち並び舞踊の奉納やノド自慢大会等も催されております。また、平成十九年には子供神輿行列も十五年ぶりに復興を果たし、かつての賑わいを取り戻しつつあるところであります。
《神幸行列》
当時の神幸行列の形態をみると『祇園宮御由来其外一式記録』に、『行幸之次第』が天慶二年(939)六月十四日の日付で記載されています。神幸行列の先頭を三色の鉾が進み、続いて笛や太鼓にどら等の鳴り物、そして神馬と三基の神輿が行幸し、神輿の両脇には御太刀や唐団扇が御供につき、後方には神官や勅使代と伝奏たちが輿に乗り、三百人もの隋兵騎馬隊が続き隋兵頭と国司が進み、最後は町々より鉾が多数出された、とされています。
また、『大祭神幸式之順』(大正七年)には、前駆として神職二名が馬に乗り先導し、太鼓の後を大旗や赤白の旗に猿田彦大神を奉じた神輿とお供え物、神馬に鉾や弓、長刀や太刀等の威儀物と甲冑騎馬が続き、金幣・御幣の後を御本社神輿、社司と社掌が馬に乗って進み、騎馬隊の後方には氏子町村の旗が並んでいた、とされ大勢の人々がこの行列に加わっていたことがわかります。
大正期の神幸行列の様子(大正九年八月)
この記録にはご巡幸の道筋も記されており、神社より祇園橋〜細工町〜西唐人町〜中唐人町〜鍛冶屋町〜上鍛冶屋町〜古川町〜山崎町〜練兵町〜辛島町九州新聞社前〜記念碑前〜辛町〜天神社(現在の山崎菅原神社)で御休憩され、天神町〜桜町〜上洗馬町〜下洗馬町〜洗馬町〜紺屋町〜万町〜米屋町〜魚屋町〜呉服町〜西唐人町〜上小沢町〜板屋町〜細工町〜大工町〜万町〜米屋町〜中阿弥陀町〜西阿弥陀町〜細工町〜石塘〜二本木町〜遥拝社(旧社地)の御旅所に着き、宮寺区〜田崎区〜万日区〜春日区より神社へ御還幸されていたとあります。
後の『熊本県祭礼調』(昭和三十年)によると最後の神幸行列の道筋は、神社より祇園橋〜細工町〜唐人町〜鍛冶屋町〜古川町〜紺屋今町〜新市街〜行幸町〜山崎天神で御休憩され、天神町〜行幸町 船場町〜古川町〜慶徳堀町〜松原町〜万町〜呉服町〜古桶屋町〜川端町〜二本木石塘〜二本木町〜二本木グラウンド(旧社地)の御旅所に着き、宮寺町〜田崎〜万日〜春日町より神社に御還幸され、現存の町名からも氏子地域を中心に行列が行われていたことがわかります。
夏祭りの奉納演芸の様子(昭和七年八月)
このように厳粛かつ盛大に執り行われていた神幸行列が途絶えて半世紀余りが経過した今、当時の「祇園祭」を復興させることが御神威の高揚に繋がるものと信じ、その諸準備も徐々に進められているところです。皆様方の暖かいご支援とご協力を切にお願い申し上げます。